彦根城 2006.05.22
朝は曇りがちで行こうか迷いましたが、どうしても天気予報が晴れると言い張るので行ってきました。
天気予報は信用できませんが、万が一晴れると余計むかつくしw
結果的にはそこそこの天気にはなったのでよかったです。
名古屋から大垣、米原と乗り継いで彦根に到着。
1時間半かからないくらいです。
しかし彦根というか滋賀はすでに関西圏なんですね。

彦根駅から少し行くだけで城が見えてきました。
いかにも城下町的な街並みで、小牧もこんな感じでした。
幼稚園の頃、天井に彦根城のペナントが貼ってあったのは
間違いなく覚えてますけど、行った記憶がありません。
たぶん私の死んだ兄貴が家族と行ったんだと思います。
なのでおそらく私にとっては初の彦根城攻略です。
思ってたよりも相当規模が大きかったのでビックリ。
立派な堀や石垣が広範囲に渡って残されています。
二の丸佐和口多聞櫓(重要文化財)
左右にある櫓の内、左は1770年頃に焼失したものを再建、
右は明治に破却されたものを、井伊直弼を讃えて
桜田門外の変から数えて100年後の昭和35年に再建
されたものだそうです。

多聞櫓は塀と櫓と特徴を併せ持ち
狭間(三角や四角の穴)から矢、鉄砲で迎撃します。
馬屋(重要文化財)
藩主の馬が十数頭置かれていた建物で
全国的にも現存してるのはここだけらしいです。
しかし藩主一人のためだけに十数頭も飼ってたんですかね?
1頭でええやん。
堀にたたずむ鵜(多分カワウ)。
カワウは名古屋城にも大挙して
糞で石垣を白くしてしまいました。
彦根城博物館。
中は各種展示物と、能舞台・奥座敷等を復元した作りに
なってます。

因みに、彦根城・博物館・玄宮園のセットで大人900円。
井伊の赤備え。
3代藩主・直澄の具足です。

徳川四天王が一人・井伊直政は家康の命により
旧武田軍の配下を統率、山県昌景の象徴でもあった
赤で統一された鎧兜「赤備え」を継承したそうです。

戦国の世でも赤い彗星として恐れられたことでしょう。
博物館を後にし、いよいよ城攻略です。
低いながらも山の上に建ち、城の縄張りもかなり広いので
城までたどりつくのは容易ではありません。
しばらく登ると空堀の底のようなところに出、
上には橋がかかっています。
立体交差のようなところを進むとやっと橋を渡れます。
天秤櫓(重要文化財)。
秀吉が建てた長浜城の大手門を
移築したと伝えられています。
右の石垣はおそらく築城当時のものですが
左側は幕末に大修理があり、石垣の積み方が全然違います。
右の石垣。
「ごぼう積み」というんですが、野面積みの一種ですね。
野面積みとは初期に見られる、石をほとんど加工しないで
そのままの形で積んでいく工法で、見た目が粗いです。
左の石垣。
切込接ぎという工法ですかね。
石を加工して隙間を少なくする後期の方法です。
見比べると一目瞭然です。

これの中期にあたる工法が打込接ぎ。
切込接ぎほどは加工しない石での工法です。


皆さん着いてきてますかー?
時報鐘と聴鐘庵。
1844年に作られた鐘で、元は城の東にあたる
鐘の丸にありました。
ですが城下の北の隅に音が届かないので
城の南であるここに移しました。

南に移したら余計北に届かない気もしますが。
太鼓門櫓(重要文化財)。
現在この中は全国の城の写真を展示しています。

当日は遠足の幼稚園児が群がってました。

ここまで来るのに結構石階段を登るんですが、
じいちゃんばあちゃんにはやはり負担かかるみたいです。
彦根城。
関が原後、近江に移封された井伊直政ですが、
石田三成の居城・佐和山城は戦闘で荒れて使い物にならず
また、山城で便も悪いので琵琶湖の西に築城を決めました。
ところが戦傷が元で急死、子の直継が幼くして
家督を継いだ時に家臣が合議しこの地に決定、築城しました。

大津城移築説が有力。
天守最上階から見た日本一の湖。
この地は、北陸・京・中部と繋がる重要な拠点です。
天守内、武者走り。
城内は国宝だけあって、当時を思わせる作りのままで
装飾もなければ展示物もほとんどありません。
天井の梁(はり)とか見るべき人が見れば
その作りに関心するんでしょうけど、
私も含めて一般客にはその価値は分かりません。
展示物の多い復興天守の方が一般の人には
面白いでしょうね。
西の丸三重櫓。
浅井長政居城・小谷城天守の移築とも言われています。
空堀も往時を思わせる形で残っています。
城を降りて庭園のある近くに井伊直弼生誕地の碑があり、
楽々園という、直弼が生まれた屋敷があります。
残念ながら正面からは工事で塞がってました。
玄宮園。
1680年、4代藩主直興が造った名園。
お茶も飲めます。
天守を眺めながら舟に揺られたり茶の湯を楽しんだり
したんでしょうね。
井伊直弼像。
11代彦根藩主の14男という、とても家督を継げる身分に
なかった自分を「埋もれ木」にたとえ、「埋木舎(うもれぎのや)」
というこじんまりした住居に身を置いて、生涯部屋住みを
覚悟したはずでしたが、なんだかんだで結局藩主と
なってしまいました。が、ほどなくペリーが来航、
世は開国論者と攘夷論者が反目することとなりました。

当時の攘夷論者はやみくもに外国を倒すというだけで
具体的な策は見出さず、強大な列国にかなわない現実を
見ようとしない、日本にとっては滅亡の道を歩もうとするだけの
存在でした。直弼は、日本の未来のために開国しようとし、
攘夷論者を一掃するためにたくさんの血を流しました。
その結果が有名な「桜田門外の変」というわけです。
攘夷論者も直弼も思想が極端で過激だったんですかね。
両者とも自国を思ってこそなのが皮肉です。
城も一通り見たところで、城の二の丸売店でレンタサイクルを
取り扱っているので、自転車を借りて琵琶湖まで一漕ぎ。
観光船に乗ろうと一瞬考えましたが、結構時間かかりそうなので
船を見送りました。

しかし流石に日本一の湖です。対岸が見えません。
夢京橋キャッスルロード。
城に通じる京橋から伸びる、江戸の町並みをイメージした
一種の商店街ですね。近江牛の店とかいっぱいありました。
キャッスルロードの並びに建つ宗安寺。
玄関の赤門は、佐和山城門を移築したと伝えられています。

このあと、キャッスルロードのわき道に入ると
大正ロマンをイメージした店の並びに出ます。
そこでジェラートを食しました。
キャッスルロードから北西に行くと、細い路地にぽつんと
石が奉ってあります。これが腹痛石。

平安の時代から彦根寺に詣でる時に石に腰掛けて休む光景が
見られ、おそらくこれもその石だったのでしょう。
由緒ある石を守るために「石に触ると腹痛をおこす」という
伝承がおき、大切にされたということです。
今やお地蔵さんのような存在です。
街の散策も終わり、一部見てない所があったので。

旧西郷屋敷長屋門。
この一帯は上級武士の屋敷があった所だそうです。
埋木舎。
井伊直弼は15歳頃までここで暮らし、
文武に渡って精進したそうです。

やり方は過激でしたが、直弼がそうまでして開国に
尽力しなかったら…と思うと興味深いです。結果論ですが。
帰りは、乗り継ぐのも面倒で列車が来るのに30分かかるし
どうしようと思ってたら、名古屋までの特急が来たので
乗っちゃいました。特急券は1150円だったかな?
でも乗り継ぐより相当楽ですからね。

ふと車窓に目をやると、山腹に「佐和山城」の看板が。
慌ててシャッターきりました。
標高230mほどで、登山道が整備されてますが、
登る気力はありません。とことん破却されていて遺構も
ほとんど残ってないそうです。
規模はかなりのものでしたが、
三成死後入場した家康側の者はその質素さに驚いたとか。
ちょっと遠いですけどぶらっと列車にのってぶらっと城下町を歩くのも
精神的にいいような気がします。
他の国宝天守、姫路と松本も行きたいですけどねー。日帰りだと面倒だなー。
ぬこがいると一泊もできないです。